夏の風物詩に包まれた思い出の味

: UPDATE /
食いしん坊にとって、旅先の市場を訪れローカルの味に触れることは大きな楽しみです。

今回の行き先はオレロン島。西フランスの大西洋岸に浮かぶ 本国で2番目に大きな島です。シャラント=マリティーム県に位置し、豊かな大地と穏やかな海洋性気候に恵まれ、日照時間も長く「光溢れる島」とも呼ばれています。


(右/のびのびとした自然が広がるオレロン島では乗馬を楽しむ人々の姿も。中央/島内で見かける色鮮やかでかわいらしい漁師小屋群は現在アーティストたちのアトリエとなっています。左/マリンスポーツの人気スポットも数々ありますが、野生の美しい海岸も保存されているのがこの島の魅力です。)
(右/のびのびとした自然が広がるオレロン島では乗馬を楽しむ人々の姿も。中央/島内で見かける色鮮やかでかわいらしい漁師小屋群は現在アーティストたちのアトリエとなっています。左/マリンスポーツの人気スポットも数々ありますが、野生の美しい海岸も保存されているのがこの島の魅力です。)
島の市場では、名高いオレロン牡蠣を代表とする海の幸はもちろん、名物のメロンなど色とりどりの瑞々しい農産物が並びます。嗜好品ではコニャックが有名で美味な食材が色々揃っています。
(左/市場の魚屋さんの目玉商品はやはり新鮮な牡蠣です。1970年代に病害により危機に陥った島の牡蠣産業を救ったのが日本の同業者たちでした。フランスでも名高いオレロン産の牡蠣のルーツは日本にあったのです。中央/島の塩田産の大粒の天日塩フルール・ド・セル(塩の精華)や現地で採れた海藻入りのオリジナル・チーズも見かけました。右/ローカルの生産者たちが直接販売している味と栄養いっぱいの果物や野菜。)
(左/市場の魚屋さんの目玉商品はやはり新鮮な牡蠣です。1970年代に病害により危機に陥った島の牡蠣産業を救ったのが日本の同業者たちでした。フランスでも名高いオレロン産の牡蠣のルーツは日本にあったのです。中央/島の塩田産の大粒の天日塩フルール・ド・セル(塩の精華)や現地で採れた海藻入りのオリジナル・チーズも見かけました。右/ローカルの生産者たちが直接販売している味と栄養いっぱいの果物や野菜。)
ここで探していたローカルの味を見つけました。今ではすっかり珍しくなりましたが、昔はこの地域でよく食べられていた、「オレロンのジョンシェ」という名でも知られたチーズです。

ジョンシェ

ジョンシェという名前は、イグサを城の床に絨毯代わりに敷き詰める習慣を意味する言葉が由来です。夏の風物詩でもあるイグサで作った巻きすにカード(凝乳)を入れ固めて作った中世に起源をもつフレッシュ・チーズです。

冷たいままデザートにお砂糖やジャムをかけて食べます。弾力のある食感で、夏にぴったりの爽やかチーズです。


最後のジョンシェ職人ジャルナンさん

島の対岸に渡り、ご両親の代からこの道一筋のエリック・ジャルナンさんの工房を訪ねました。オレロンを含むこの地域で売られているジョンシェはここで作られているのです。昔と変わらぬ新鮮な無殺菌牛乳を原料に、現在出回っているプラスチック製の巻きすではなく本物のイグサを使い続ける最後の生産者です。数十年来ドアツードアでジョンシェを届け続けるジャルナンさんの生きがいは、昔からこのチーズを愛し続ける人々とのふれあいだそうです。
(左/ジャルナンさんの工房。イグサ製の巻きすにカードを入れ、巻いた両端をゴムで締める作業を見せていただきました。中央/ご自慢の出来立てジョンシェを見せてくださるジャルナンさん。最近はサラダ風に食べるのも人気らしいですが、赤砂糖をまぶして食べるのが子供の頃から一番のお気に入りだそうです。右/この地域でよく育つイグサは緑に茂った工房の庭にも生えていました。専用巻きすはご自身で刈ったイグサを長年付き合いのある裁縫師さんに縫ってもらうそうです。)
(左/ジャルナンさんの工房。イグサ製の巻きすにカードを入れ、巻いた両端をゴムで締める作業を見せていただきました。中央/ご自慢の出来立てジョンシェを見せてくださるジャルナンさん。最近はサラダ風に食べるのも人気らしいですが、赤砂糖をまぶして食べるのが子供の頃から一番のお気に入りだそうです。右/この地域でよく育つイグサは緑に茂った工房の庭にも生えていました。専用巻きすはご自身で刈ったイグサを長年付き合いのある裁縫師さんに縫ってもらうそうです。)

ジョンシェに学ぶレンネットの豆知識

世界で食べられるチーズの大部分がレンネット(凝乳酵素)を凝固剤として使用しています。古代から使われてきたレンネットは動物性で、子牛など離乳前の反芻動物が持つ胃の中で乳を固めるキモシンと呼ばれる主成分を抽出したものです。しかし、動物性レンネットは希少で高価なため、産業化されたチーズの大量生産には適しませんでした。そこで科学の進歩により開発されたのが1960年代に日本で製品化された微生物レンネットと、1990年代から実用化した遺伝子組み換え技術を用いて作られる発酵生産キモシンです。現在これらの酵素がチーズづくりに欠かせない主力レンネットとして世界中で活躍しています。

新しい酵素が出回る以前、ジョンシェには青い花の咲くカルドンと呼ばれるチョウセンアザミ属の植物から抽出された植物性レンネットが使用されていました。今でもカルドンを使っているチーズがイベリア半島でみられます。近年様々な賞を獲得しているスペインのトルタ・デル・カサールDOPなどがその例です。植物性レンネットには、この他イチジクやパパイヤの酵素を使用したものもあるそうですが、アザミの一種がチーズ作りに使われていたとは驚きでした。

(カルドンから抽出された植物性レンネットを使用したトルタ・デル・カサールDOP。モン・ドールのように表皮を切り取ってトロリとした中身をスプーンですくって食べるスペインのグルメチーズです。)
(カルドンから抽出された植物性レンネットを使用したトルタ・デル・カサールDOP。モン・ドールのように表皮を切り取ってトロリとした中身をスプーンですくって食べるスペインのグルメチーズです。)

映画で出会ったジョンシェ

この珍しいチーズの存在を知ったのが、10年前に『大統領の料理人』というフランスの伝記映画を見た時です。

女性で初めてフランス大統領専属のシェフとなったダニエル・マゼ=デルプシュがモデルとなった物語です。彼女が付いたのが1981年から14年間と長期に渡りこの国の大統領を務めたフランソワ・ミッテランです。映画の主人公オルタンスは、女性を見下す男料理人たちの嫉妬や形式ばかりのプロトコールを乗り越えながら、それまでの只々豪華絢爛な贅沢料理とは異なった、食べる人の心に響く美味しい料理で官邸内に新しい風を吹き込みます。そんな彼女の一皿々々が、年老いた多忙な大統領に元気だけでなく癒しすらもたらすのです。

(クリスチャン・ヴァンサン監督作品『大統領の料理人』。主役のオルタンスはフランスを代表する名女優カトリーヌ・フロが好演。そして大統領役には5年前に92歳で亡くなった作家・哲学者で、フランスで最も名誉と権威あるフランス学士院のアカデミー・フランセーズの会員も長年務めたジャン・ドルメッソンが映画初出演。)
(クリスチャン・ヴァンサン監督作品『大統領の料理人』。主役のオルタンスはフランスを代表する名女優カトリーヌ・フロが好演。そして大統領役には5年前に92歳で亡くなった作家・哲学者で、フランスで最も名誉と権威あるフランス学士院のアカデミー・フランセーズの会員も長年務めたジャン・ドルメッソンが映画初出演。)

子供時代の思い出の味

この映画の中で、ジョンシェが登場するのが重要な昼餐会を準備する場面です。大統領が喜ぶ料理の構成やメニューを考えるオルタンスが参考にするのが、彼の郷土シャラントの古い料理本です。彼女は、その中に登場するこの珍しいチーズを試行錯誤しながら再現し、大統領官邸で出すに値するデザートに仕上げていきます。そんな彼女が大切にするのが「子供時代の思い出の味」です。

人の味覚形成には、食べ物の味・香り・食感や見た目以外に、それを食べた場所・状況・一緒に食べた人などの要素も大きく影響します。そのため、子供の頃に身近に接した安心感のある味や嬉しい体験を伴った味覚は大人になってもおいしく、食べて幸せを感じるものなのです。

これと対照的なのが、最初は困惑すら覚えた味が、食べるごとに病みつきになる習得されたおいしさです。エポワスやロックフォールなどクセのあるチーズでこれを体験された方も多いと思います。

オルタンスが基本とするのは前述のおいしさですが、これを土台に最高級の素材と料理の腕を惜しみなく使い、病みつきになるおいしさの食材も程よく混ぜて仕上げていくのですから最高のお料理ですね。そんな彼女が子供時代の思い出の味がつまったジョンシェを大統領の昼餐会のデザートに選ぶエピソードが、このチーズの魅力を語っています。

ピエール・ロティ

子供時代にジョンシェを食べていたのではと私が想像を膨らませるのが、オレロン島、そして日本ともゆかりの深い作家ピエール・ロティ(1850-1923)です。フランス海軍士官でもあった彼は世界中を航海し、訪れた各地のエキゾチックな風景や人々を詩的で美しい文章にユーモアや辛辣さも加えて紹介した紀行文や小説は異国情緒に憧れる読者たちを虜にしました。
(ピエール・ロティ。ロチとも表記されることも。前述ジャン・ドルメッソンの大先輩にあたるアカデミー・フランセーズ会員でもありました。)
(ピエール・ロティ。ロチとも表記されることも。前述ジャン・ドルメッソンの大先輩にあたるアカデミー・フランセーズ会員でもありました。)

ベストセラーとなった日本を取り扱った作品

『お菊さん』は、1885年に長崎に滞在した際の一種の疑似結婚体験を綴ったものです。欧米で日本美術への興味がジャポニズムと呼ばれる流行をつくった時代のベストセラーとなり、芸術家たちにも影響を及ばしました。オペラ史の中でも最高傑作のひとつとされるプッチーニの『蝶々夫人』も、この本がインスピレーションのひとつとなっているのです。

ロティの作品は日本の文芸界にも影響を及ぼしました。旅行記『日本秋景』では、明治政府から鹿鳴館に招待された際のことも語っています。芥川龍之介は、これをもとに『舞踏会』を執筆し、三島由紀夫の戯曲『鹿鳴館』もこれらに大きな影響を受けているのです。

(『お菊さん』と訳されたこの本はフランスで若い娘を意味する「mousmé(ムスメ)」という流行語も作りました。これを夢中で読んだ画家のゴッホはその後、『ラ・ムスメ』という題をつけた作品を生み出しています。)
(『お菊さん』と訳されたこの本はフランスで若い娘を意味する「mousmé(ムスメ)」という流行語も作りました。これを夢中で読んだ画家のゴッホはその後、『ラ・ムスメ』という題をつけた作品を生み出しています。)

心のよりどころとなる子供時代の思い出

ロティのお墓があるのが、回想録『少年の物語』で紹介されている子供の頃に休暇を過ごしたオレロン島の家の庭です。世界中を旅し名声もほしいままにした彼が、ひっそりとここを永眠の場として選ぶほど、子供時代の思い出がつまったこの地を愛していたのです。
(ロティが幸せな子供時代を過ごし永眠の場に選んだオレロン島の家。白い壁に緑色のよろい戸が印象的。彼が「祖先の家」と名付けたこの家は、本人の遺言を尊重して一般公開されていません。)
(ロティが幸せな子供時代を過ごし永眠の場に選んだオレロン島の家。白い壁に緑色のよろい戸が印象的。彼が「祖先の家」と名付けたこの家は、本人の遺言を尊重して一般公開されていません。)
(「ここ祖先の家の庭で蔦と月桂樹のもとピエール・ロティ眠る」と表記された外壁の石プレート。)
(「ここ祖先の家の庭で蔦と月桂樹のもとピエール・ロティ眠る」と表記された外壁の石プレート。)
いくつになっても心のよりどころとなる五感に刻まれた子供時代の幸せな思い出。オレロン島でジョンシェを味わいながら、遠い異国で生まれ育った私までそんな幸福感に包まれました。
(オレロン島の太陽の下、元気に育ったトマトとバジルでアレンジしてみたジョンシェの前菜。ほんのりとしたイグサの香りが特徴的な素朴な味でした。)
(オレロン島の太陽の下、元気に育ったトマトとバジルでアレンジしてみたジョンシェの前菜。ほんのりとしたイグサの香りが特徴的な素朴な味でした。)
(デザートには小粒でも美味しさがしっかりつまったローカルいちごを飾ってみました。アーモンドの香りがついたジョンシェもあるのですがオレロンの市場では扱っていなかったので、専用に添えてくれたアーモンドのアルコールとお砂糖をかけて食べました。杏仁豆腐のような懐かしい味がしました。)
(デザートには小粒でも美味しさがしっかりつまったローカルいちごを飾ってみました。アーモンドの香りがついたジョンシェもあるのですがオレロンの市場では扱っていなかったので、専用に添えてくれたアーモンドのアルコールとお砂糖をかけて食べました。杏仁豆腐のような懐かしい味がしました。)
深作 るみ

京都生まれのフリーライター。夫と子供3人でフランス在住。