小さな巨人モン・ヴァントゥ

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モンヴァントゥ
今月は、国最大の祭典であるフランス建国記念日と、サイクルロードレースの最高峰、ツール・ド・フランスが例年通り開催され、コロナ禍以前の活気を取り戻しつつあるパリ。
そんな中、官公庁や大使館が並ぶパリ7区の美しい高級住宅街フォーブール・サンジェルマンでの用事を済ませたある日のことです。
せっかくなら美味しいチーズでも買って帰ろうと、すぐ近くにあるフランス中でも高名なニコール・バルテルミ・チーズ店へ立ち寄りました。
ニコール・バルテルミ・チーズ店 (左/今年50周年記念を迎えたこの名店は、昔ながらの店構え。
右/小さな店内には200種類以上のチーズがぎっしり並んでいます。
左端に見えるのが、店主のニコールさん。なかなかの個性でも知られるチーズ業界の名物マダムです。)
さすがフランス大統領ご用達のチーズ店。
あらゆるチーズが国中から揃うパリでもなかなか見つけることのできない美しいチーズに出会いました。
モン・ヴァントゥ(Mont-Ventoux)です。
モン・ヴァントゥ
上部が雪のように白く底部が粉吹く灰色の、ビジュアル的にも洗練されたこのコーン型チーズは、底面の直径6cm、高さ7cmで、約55g。
小柄なサイズとは対照的に、その名前は「プロヴァンスの巨人」という別名を持つ南仏ヴォクリューズ県を代表する山、モン・ヴァントゥからきています。
モン・ヴァントゥの麓で作られるこのチーズは、柔らかいシェーブルタイプで、一時期は絶滅の危機にもあったローヴという種類の山羊の生乳が原料です。
薄い表皮は滑らかで、下部には木炭の粉がまぶしてあります。木炭の代わりに南仏を代表する乾燥ハーブのエルブ・ド・プロヴァンスを使用することもあります。
きめが細かく引き締まったシェーブルで、ほどよい酸味の繊細な味わいです。熟成が進むと乾いてもろくなり、味も濃厚になります。

パリでこのチーズと出会い、私の胸は、昨年の夏に訪れたモン・ヴァントゥの思い出でいっぱいになりました。

「プロヴァンスの巨人」モン・ヴァントゥ

南仏プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏で先ローマ時代に話されていた古代リグリア語で「遠くから見える山」を意味するモン・ヴァントゥは、標高1909メートルの独立峰です。
お天気の日には100キロ先からでも見える存在感ある山です。遠くから見ると夏でも山頂が白いので、雪かと思うのですが、これは石灰岩がむき出しになっているためです。
モン・ヴァントゥ(山)

サイクリストのメッカ

モン・ヴァントゥは、前記ツール・ド・フランスの最高難度で国内最恐と言われる山岳ルートとしても有名です。
「魔の山」と呼ばれ、大会コースに選ばれる度にこのイベントの目玉となります。この禿山の荒涼とした山頂部には、強風や灼熱からサイクリストたちを守る木が一本もなく、ここを舞台に様々なドラマが展開されます。過去には死亡者を出すという悲劇すらありました。
今年の大会では、モン・ヴァントゥが山岳コースに選ばれただけでなく、7月7日の第11ステージでは、最高気温30度の中、選手たちが2回登って下ったのですから驚くばかりです。
ステージ優勝者は26歳のベルギー人、ワウト・ファンアールト選手。大会最終日7月18日の第21ステージでも輝かしいシャンゼリゼ優勝ゴールインを果たした彼は、表彰直後のインタビューで自分にとって今大会を象徴する一枚の写真はという質問に対して、「モン・ヴァントゥを一人で登っている一枚」と語っています。
このコメントからもサイクリストたちにとってのこの山の重要性が伺われます。自転車界屈指の伝説の山モン・ヴァントゥは、これに挑戦しようと、全国そして世界から熱血自転車愛好家たちが集まるサイクリストのメッカなのです。
この数時間後にファンアールト選手は、東京オリンピック参加のためパリから日本へ発ちましたが、この夏の五輪でも様々な感動を期待しながら、皆さまのご健闘を心からお祈りしております!
ツールドフランス (左/モン・ヴァントゥを上る道路はサイクリストでいっぱい。中央/山頂の巨大アンテナ塔に向かってラストスパート。右/ゴール地点で順番に記念撮影するサイクリストたち。シールで覆われた看板には「モン・ヴァントゥ山頂1909メートル」 と書かれています。)

ファーブルも愛したモン・ヴァントゥ

アルプス山脈と地中海の中間に位置するモン・ヴァントゥは、特有の植物相と豊かな生物多様性でも知られ、1990年ユネスコ生物圏保護区に登録されています。
約60種の希少種植物が確認され、フランスで確認された蝶々の30パーセントに該当する約1400種の生息地です。
日本では小学校の教科書でも取り扱われ、『昆虫記』の作者として有名な博物学者、ジャン=アンリ・ファーブル(1823-1915)が愛した山でもあります。
1842年、18歳でこの地方の小学校の先生となったファーブルは、初めてモン・ヴァントゥに登り、それ以来、『昆虫記』執筆時点で25回の登頂を果たしています。
本書第一巻にも「モン・ヴァントゥ登山」という章があります。
ジャン=アンリ・ファーブル(1823-1915) (『昆虫記』にも登場するモン・ヴァントゥ標高約1550メートル地点にある小屋。ファーブルたちはこの小屋で夜を過ごし、翌朝登頂しました。)

『昆虫記』の意外な事実

私たち日本人には意外なことに、ファーブルはフランスの一般人には知られていません。
これは、本土フランスでは日本のように子どもでも気軽に楽しめる形でファーブルの本が出版されなかったことに起因しています。
夫が昆虫ファンなので我が家には仏語の『昆虫記』がありますが、10巻からなるこの作品を上下の2冊で編成しています。それぞれ1100頁以上で、本好きでない人が手に取ってみようとは思いそうもない装本です。
『昆虫記』を初めて日本語に訳したのは、大正時代を代表するアナキストの大杉栄です。
その後、様々な名訳や子供用に編集されたものが多数存在しますが、この名作が日本で広く読まれ愛され続けているのは、先代の日本の文化人たちのお蔭です。
昆虫記 (我が家のフランス語版『昆虫記』。上下2冊とも小さい字がぎっしり詰まっています。)

あの『昆虫記』にもチーズ登場

朝の4時、ガイドが率いる植物学者、登山愛好家、荷を運ぶロバとラバの8人2頭の一行が麓の村を出発します。
バロメーターを肩に下げ、ノートと鉛筆を手に持ったファーブルは、虫や植物を観察しながら皆を追います。
険しい山道を寒さと暑さに耐えて長時間歩いた後、大いにお腹を空かせた登山者たちに大歓迎された「人生の中で忘れられない叙事詩のような食事」の場面に、あるチーズが登場します。
「上座に置かれているのが、ウィンターサボリーが薬味のヴォントゥ産のペブレ・ダゼの小さなチーズたち。」
草の上に敷かれたテーブルクロスの上でも特別扱いです。
一同は、そこに一緒に並べられた子羊の肉、オリーブ、油漬けのアンチョビ、ドライ・ソーセージなどを夢中で食べます。

そして、
「最後に、手のひらの大きさもないペブレ・ダゼのチーズたちを称えることに全会一致。」
と、大好評です。ピクニックでもチーズを食後にとっておくところが、フランス人ですね。
ぺブレ・ダゼとはプロヴァンス語で「ロバのコショウ」を意味するハーブのウィンターセイボリー(木立薄荷)で、これをまぶした山羊乳または牛乳を原料とした小さな丸いチーズの名前にもなっています。モン・ヴァントゥ以上に珍しく、この地方を旅行した時にも見かけませんでした。
そこで調べてみたところ、ぺブレ・ダゼは、現在ではフランス各地のチーズ屋さんで見かけることのできるプロヴァンスを代表するチーズ、バノンにウィンターセイボリーをまぶしたものであったことが分かりました。プロヴァンスで唯一のAOPを取得した2003年以来、バノンの製造方法は統一され、栗の葉で包むことが条件となりましたが、それ以前はハーブをまぶしただけのものも多かったのです。
バノンの特徴は、「カイエ・ドゥ(マイルドな凝乳)」と呼ばれる技術で絞りたての乳を素早くレンネット(凝乳酵素)で凝固するところにあります。これにより、乳の自然の酸化が抑制され、プロヴァンスの暑く乾燥した気候でも保存が可能となり、味も「ドゥ=マイルド」に仕上がります。シェーブル・チーズの8割以上が乳酸発酵で凝固され、どちらかというとパサパサした食感なのに、バノンは熟成するにつれて軟らかくとろりとした口触りになるのはこのことが理由です。
ファーブル一同がモン・ヴァントゥで食べて称賛したチーズは、シェーブル・チーズの中でも特有の味わいと舌触りが楽しめるだけでなく、保存面でもこの土地の古人の知恵があふれたものだったのです
栗の葉で包んだシェーブル
(プロヴァンスでは、ローマ時代に、ある皇帝がバノンを食べ過ぎて亡くなったという伝説すら残っています。現在では栗の葉で包んだ後、ヤシのひもで縛られ、見た目も趣のあるチーズです。)

モン・ヴァントゥ登頂にチャレンジ

『昆虫記』のファーブル登頂から150年以上たった昨年、私も夫と一緒にモン・ヴァントゥ登頂にチャレンジしてみました。とは言うものの、ファーブルの時代とは比べものにならない現代風のレジャー登山です。ツール・ド・フランスの登坂地点として有名な標高1417メートルにある山小屋の集合地まで車で行き、朝の4時半にガイドさんとグループ一同と合流。幸いファーブルたちのように大雨に襲われることもなく、深い霧に包まれて方向を失うこともなく、冷や冷やするようなアドベンチャーは一切抜きで、3時間弱で約500メートル上の山頂に無事辿り着きました。
流れ星や惑星まで見えた満天の星が輝く夜空。遥か彼方に広がる雄大なアルプス山脈の背景に上る息を呑むように美しい日の出。モン・ヴァントゥの大自然の元気な虫の音と新鮮な山の草花の香り。朝日を浴びながら、のどかに草を食べるアルプスカモシカたちの姿。ガイドのルイさんが山頂で用意してくれた最高に美味しかったコーヒーとクロワッサンの朝ごはん。どれもこれもが感動に満ちた、あの朝の風景です。
モン・ヴァントゥ登頂の様子
モン・ヴァントゥの名前を持つこの小さな美しいチーズを眺め味わいながら、去年の夏に出会った700キロ先の彼方にそびえる「プロヴァンスの巨人」の偉大な自然とそこに宿る千種万様の尊い生命、そこで感動を共にした人々など、鮮やかに蘇る数々の思い出も堪能しました。
深作 るみ

京都生まれのフリーライター。夫と子供3人でフランス在住。